日本オラクル歴代社長の評価・評判・実績

名前 評判・実績・評価など

アレン・マイナー

(Allen Miner)

アレン・マイナー

【期間】
1987年~
1990年10月

※初代社長。米国人。大学時代に2年間、宣教師として来日し、日本語をマスター。米国に戻りオラクル本社に就職。日本進出の任務を負って再来日。知人だったビル・トッテン氏率いる「アシスト」を総代理店に指定し、日本でのビジネスを順調に立ち上げる。さらに、日本IBMの佐野力氏を引き抜き、後任社長に据えた。型破りな佐野氏を選んだ眼力は高く評価されている。

【生まれ】
1961年6月30日

出身

米ユタ州フェアビュー
※農村。当時の人口600人
※農家に生まれる。

5歳のときに同州プロボに転居。ブリガムヤング大学の大学都市。 父親は祖父から農場を受け継ぐ予定だったが、警察に転職。兄(二男)も農業を断念。

少年時代

成績優秀で、高校時代まで勉強しないでもトップ級。

プログラミングと出会う

高校でコンピューターの授業を受け、プログラミングに興味を抱く。

バイト

高校時代、モルモン教の教会の日曜学校で、大学講師ドリュー・メージャー(Drew Major)氏と出会う。後にコンピューター業界で超有名になる天才プログラマーだ。 このメージャー氏の誘いでプログラミングのバイトを始める。ワープロソフトのプログラムをつくった。 メージャー氏が手書きで書いたプログラムを、打ってちゃんと動くようにする仕事だった。(1979年~1980年ごろ)

メージャー氏はその後、米ノベル社(本社:ユタ州プロボ)で「NetWare(ネットウェア)」を開発し、歴史に名を残す。

大学

地元のブリガムヤング大学(モルモン教系)に入学。 コンピューター・サイエンス専攻。 学費無料の特待生だった。

再びアルバイト

天才メージャー氏から、今度はノベルでのバイトに誘われた。 当時のノベルは、メージャー氏を含む天才技術者4人で構成する会社だった。 ノベルからは「ストックオプション」でのバイト提示されたが、「ちゃんと時給7ドルくれなきゃいやだ。教科書代が必要だ」と断った。

ノベルでなく、ソフトウエアのベンチャー企業「ライトロン・システムズ」でバイト。 保険会社用の保険計算ソフトを開発する会社だった。友人の父親が社長を務めていた。 時給7.5ドルでスタート。 大学3年で辞め、その1年後に経営が傾き、ノベルに買収された。
=>このバイトを通じて「商品が優れていても成功するとは限らない。マーケティングが重要」との教訓を学んだ。

モルモン教の宣教師として日本へ

大学時代に2年間、日本の北海道でモルモン教の宣教師として布教活動に従事した。 札幌、釧路、函館、留萌(るもい)などに住んだ。日本文化に魅了される。
※モルモン教徒は19歳で宣教師に出るのが一般的

もう一つの専攻「東洋文化学」

ブリガムヤング大学では当初、哲学を副専攻にしたが、日本が気に入ったので、米国に帰国後は「東洋文化学」に変更。コンピューターとアジア学のダブルメジャーになった。

就職活動

就活の際にもノベルからもオファーがあったが、「違う町に行ってみたい」と断った。 オラクル採用担当者が大学に来て、最初の質問は「あなたは日本語話せるの?」だった。 「製品に日本語版がなくて困っている。日本語ができるエンジニアが必要」とのこと。
==>ダブルメジャーを活かせる領域に魅力を感じた。

オラクル入社にあたっては、「ストックオプション3分の1減らすかわりに、月給2000ドルアップ」を申し出る。
==>結果的にだいぶ損した。

米オラクル入社(1986年)

1986年、米オラクル入社。大学の新卒採用を始めて間もないころで、同期入社46人。 当時、創業9年目、従業員400人。売上高25億円。

配属先は国際部

配属先は国際部だった。当時15人。日本担当になる。 入社2年目になると、日本で親しくなっていたソフト会社大手「アシスト」のビル・トッテン社長から電話を受ける。「他のデータベース会社から代理店の誘いを受けている」と言われた。
==>「これはやばい」と役員に以下の提案を行う。

  • (1)販売代理店をアシストに変更
  • (2)責任者として自分が日本に行く(2年くらい。アシストとのブリッジ役になるため)

1987年、日本法人の初代社長に

1987年、日本オラクル設立し、社長に就任する。

社長時代の実績・取り組み

立ち上げ

当初、総代理店となった「アシスト」のオフィス内に間借りして事業を開始。 人員は、マイナー氏とアシストの3名の計4人。 ソフトの日本語環境への移植は、アシスト社が担った。

早々に売上1億円達成

本社から1億円の売上げノルマを言い渡された。 クライアントを駆けずり回り、約1億円を達成。前年比100%アップだった。

人員拡大

「日本人社長」の発掘

日本法人の発足3年後となる1990年には従業員50~60人に増加。 そこで、自分の後釜を任せられる日本人社長の発掘に乗り出した。

自著「わたし、日本に賭けてます」によると、 他国で成功していたオラクル現地法人の社長のパターンは、 「35~40歳、コンピュータメーカーの優秀な営業マン」だった。 営業課長や営業部長という現在の地位に不満で、自分はもっと優秀でもっと何かにチャレンジしたいと考える、アグレッシブな上昇志向の強いタイプだ。

マイナー氏は「そういうタイプの人が現地法人の社長になると、その人自体は良くても、その周りに同レベルあるいはそれ以上の人が集まらない」と考えた。日本で急成長するには「一緒に仕事をしたい」と思わせるようなキャラクターの人物をトップに起用し、人をトップにして、アグレッシブな上昇志向の強いタイプは「その下の営業部長にするべき」との持論を抱いた。

その考えをもとに社長探しを始めたら、難航する。50回以上面接を行い、営業部長候補は大勢いたが、社長にピッタリの人材に出会えなかった。

募集から9ヶ月近くたったころ、佐野力氏と出会う。東京・六本木のヘッド・ハンターのオフィスで初対面。会って5分で、「この人だ」と一目ぼれ。「ぜひ日本オラクルに来てください」と熱心に口説き始めたという。

佐野氏も、マイナー氏にかなり好印象を抱いたという。自著『辞めた、起した、成功したそしてロマン』で「ただ単に日本語のうまい外国人というのではなく、ちょっと話をしただけで『彼となら必ずうまく行く』という予感がした」と語っている。また、「彼がオラクル製品の説明をすると、誰もが『そんなに素晴らしいものなのか』と、素直に感心していた。誠実そうな人柄が、決して嘘を言ってないという気にさせてくれた」と振り返っている。

日本人女性と結婚

ある夏の日、佐野氏夫妻がある避暑地である独身に出会って食事を一緒にした。その女性がさかんにマイナー氏のことを聞いてくるので、「少し変った外人だがとても優れた人間だ」と言っておいたところ、数年後、その女性がマイナー氏の妻になったという。

米国へ帰国

1995年11月、9年間勤めた日本オラクルを離れ、アメリカへ帰国。

社長退任後

日本でネットワークコンピューティング構想を推進

富士通との提携に奔走

富士通との提携に奔走する。3年にわたって費やした。 (DECと提携しようとしたが、マイクロソフトにつぶされた)
==>富士通との提携を協議。その前提となるオラクルの品質改善やコボル普及に取り組んだ。
==>富士通の取締役会で決定。翌朝、ラリー・エリソンが撤退を発表。
==>米国本社に撤回を求めたが、ダメだった。
==>やる気を失った。オラクル退社したいと思った。
==>しかし、日本オラクルの株式公開が1年半後に控えていた。(保有比率は1%くらい?)
==>エリソンのためには頑張りたくない。しかし、佐野さんが大好きだから、佐野さんたち仲間のために頑張ろうと踏みとどまる。

退社し、ベンチャーキャピタル設立

「サンブリッジ」

日本オラクルの上場益の確保ができることになった段階で退社。 1999年12月ベンチャーキャピタル「サンブリッジ」設立。資本金5億円。東京都渋谷区。オラクル時代の部下だった永山隆明氏らとの共同創業だった。

日本初のインキュベーション・センター開設

2000年4月、渋谷区のマークシティの17階に日本初のインキュベーション・センター「ベンチャー・ハビタット」を開設した。

動画

<自己紹介1▼>


<自己紹介2▼>


<自己紹介3▼>


<インタビュー▼>

佐野力

(さの・ちから)

佐野力

【期間】
1990年10月~
2000年8月

※日本IBM出身。破天荒なキャラながら人間力を発揮してデータベース国内市場1位に。異例の「日本法人の株式上場」を実現した。

【生まれ】
1941年2月15日

社長就任時の年齢

49歳

出身地

北海道栗山町

出身校(最終学歴)

小樽商科大学(商学部)
※1963年卒業

新卒での就職先

日本IBM

キャリア

1963年、日本IBM入社。

順調に出世

札幌営業所などに勤務。27歳で課長に。

海外で活躍

1981年、米国IBM本社に出向
その後、北京の中国事業本部長を務める。

※北京駐在時代、共産党の統制経済下で営業活動が難航。そこで「チョコレート作戦」を展開。日本で大量にチョコレートを買い込み、配りまくった。その中から超高価なIBM製品を買ってくれる人が出たという。

西部営業本部長

女性を積極的に登用するなど、前例のないことに取り組んだ。

49歳で子会社の社長

1987年8月、日本IBMと住友電工(当時:住友電気工業)が共同出資して設立した情報システム会社「エス・アンド・アイ」の初代社長に就任する。当時49歳。

※「エス・アンド・アイ」はインテリジェントビル事業が主力。最初の受注案件は、アメリカン・エキスプレス・インターナショナルの「アメックスタワービル」(東京・荻窪/17階建て)だった。ビル内の電話、データ通信、電源の配線の図面をCADにより維持管理する方式を導入した。会社はその後も順調に継続。

オラクルからオファー

日本法人の初代社長のアレン・マイナー氏から気に入られ、米国本社の面接に臨んだ。 国際部門の副社長は、50歳前という年齢や、前職がIBMという保守的な会社であるため、反対した。 しかし、創業者のラリー・エリソンCEOは、面談で意気投合。

日本オラクル社長

1990年9月日本IBM退社し、翌10月、日本オラクルの社長に就任。 1994年5月からは米オラクル上級副社長を兼務。

社長時代の実績・取り組みなど

異例の上場

1999年2月5日に店頭市場へ株式公開を行った。アメリカの外資系企業の日本法人が株式を上場するのは異例だった。このため、何度も米国本社から阻止する動きが出た。そのたびに、佐野氏が得意の話術でラリー・エリソンを説得した。

店頭公開で26億円以上

店頭公開時、佐野社長ら取締役は所有する株式43万株を売り出した。22万1000株。佐野社長が取得した金額は26億円以上に及んだ。

他の役員・社員もリッチに

このほか、南野章・取締役(1991年6月就任)が6万株、吉田明充・常務が2万3000株を放出した。それぞれが所有する株式の13%に相当する株式だった

店頭公開時点の日本の役員個人の株式所有構成は以下の通り。

佐野力社長 146万7000株
南野章・取締役(管理部長) 39万3000株
秋田康夫・取締役(人事教育本部長) 19万5000株
吉田明充・常務 15万株
新宅正明・常務 15万株
西岡伸一・取締役(開発本部長) 15万株
引田保・取締役(営業統括本部金融ソリューション事業部長) 9万株
石井洋一・取締役(パートナー事業本部長) 3万5000株

ユニークなオフィスづくり

佐野氏はユニークな職場環境づくりに取り組んだ。

犬を借りた

本社では「犬」を借りた。ペットプロダクションから借り出した。「ハイディー(Heidi)」という名前をつけた。週水曜日の正午から午後1時までの間の出勤だった。社員番号「123456」。社員にやすらぎを与え、発想を豊かにする目的だった。

大型水槽に熱帯魚

大型水槽で熱帯魚を飼育した。観葉植物を社内の至る所に配置した。自然を意識させるオフィス空間を作りだした。

瞑想室

瞑想室や部屋全面を青く塗り大空をイメージさせる応接室なども作った。

「ソフト会社に必要なのは創造性」

以上はいずれも佐野氏のアイデアだった。「ソフト会社に必要なのは創造性」という考えからだった。日本の事務的なオフィスではいいアイデアが浮かばない。幅広い業種の企業から注目を集めた。

血筋

先祖は仙台の伊達藩だったという。 明治のはじまりとともに、「薩長土肥」の明治政府には仕えないという信念で北海道へ。 50人余りの乳飲み児をかかえた家族で木の葉のような舟に乗り、津軽海峡を渡って噴火湾の伊達に上陸したという。 「官軍に仕えることをいさぎよしとせず」が家訓だという。

父親の影響

父親は19歳のときに室蘭で新聞配達をしてためた金で、片道切符でシンガポールに渡った。16年間そこで英国人から写真技術を学んで帰国。地元・北海道の栗山に佐野写真館を開業した。

少年時代

高校のとき、短波放送の大学受験講座を聞きたくて、母が私の修学旅行のためにためたお金6000円でラジオを買ってもらった。そのかわり修学旅行には行かなかった。NHKのラジオ講座で英語の勉強に励んだ。優れた英語コミュニケーションの土台になった。

動画


新宅正明

(しんたく・まさあき)

【期間】
2000年8月~
2008年5月

※日本IBM時代の上司だった佐野・前社長に誘われ、1991年に日本オラクルに転職。社長在任中に売上高1000億円を達成。データベースに続いて、第2の柱である統合業務パッケージ(ERP)で独SAPなどのライバルと争いながら成長を続けた。

【生まれ】
1954年9月10日

社長就任時の年齢

45歳

社長就任前の役職

常務

前任者の新ポスト

佐野力社長は代表権のある会長兼CEOに就任

出身地

大阪府

出身校(最終学歴)

早稲田大学(政治経済学部)
※1978年卒業

新卒での就職先

日本アイ・ビー・エム

キャリア

日本IBM時代

なんとなく日本IBMに入社した。営業畑を歩んだ。 企業トップ相手に大きなビジネスができることが刺激的だったという。

西部支社営業本部で佐野氏の部下に

20代後半のとき、西部支社営業本部に佐野氏が本部長として赴任し、その下で約1年半、仕事を共にした。

エリートコース

その後、常務補佐に就任するなどエリートコースを歩んだ。しかしソフトウエア業界の重要性が増すにしたがい、ハード事業中心の日本IBMの将来性に疑問を感じたという。

移籍

日本オラクルに移った佐野氏より、早い時期から誘いを受けていた。 データベース・ソフトという専門領域で強みを持つオラクルへの関心を抱いた。 37歳のとき、ついに退社を決意した。

日本オラクル入社後

日本オラクル入社時の社員数はわずか50人程度。 初めこそ泥臭い営業もあったが、日本IBM時代に築いた人脈が役立ち、ある大手金融機関への売り込みに成功。その後は、他の金融機関も積極的に導入をし始めた。 営業やマーケティングの責任者を歴任した。

入社後の略歴

1991年12月、日本オラクル入社 第3営業部長

1994年9月、取締役

1996年8月、常務

2000年6月、常務(事業統括本部長)

2000年8月、社長兼COO
※米オラクル本社の副社長に就任

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

前任の佐野氏から「経営者に必要な平常心と判断力、実行力と備えている」と評された。

家族

夫人と子供2人。

社長就任時の抱負

佐野社長はゼロを1にした。自分は1を10にする。

座右の銘、モットー

好きな言葉は「先手必勝」。

好きなこと(社長就任時)

家族とのんびりすること。週に1日は必ず、家族での映画鑑賞に費やす。自分が見たい映画ではなく、家族いっしょに見られる映画を優先。


遠藤隆雄

(えんどう・たかお)

【期間】
2008年6月1日~
2013年8月

※3代連続の日本IBM出身社長。日本IBMで常務までのぼりつめたエリート。就任時に「第2巻の幕開け」を宣言。米本社が進める買収攻勢を受けて、日本法人の統合・拡大に取り組んだ。

【生まれ】
1954年1月19日

社長就任時の年齢

54歳

前任者の新ポスト

新宅正明氏は代表取締役会長に就任

出身地

和歌山県

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部)
※1977年卒業

新卒での就職先

日本IBM

キャリア

日本IBM時代

超エリートコースの社長補佐に。

1996年に米IBMに出向。

帰国後、サービス事業企画や製造・流通事業部長を務めた。

IBM・アジア地域統括会社(AP)でアジア地域のサービス事業を統括。

2006年に常務。サービス領域の成長株であるBTO事業を担当した。買収したインドのコールセンター大手「ダキッシュ」の事業ノウハウを日本に持ち込んだ。サービス事業の先導役となった。

2007年8月に「セカンドキャリアをつくる」と突然退社。その約9カ月後、日本オラクルの社長になった。

略歴

2001年、日本IBM取締役

2004年、日本IBM常務

2007年8月、日本IBM退社

2008年6月1日、日本オラクル入社

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

技術系でありながら、営業センスでも群を抜くオールラウンドプレーヤー。温厚な人柄と安定感が持ち味。

社長時代の実績・取り組みなど

統合運用するシステムを強化

データベース(DB)に頼る一本足打法ではなく、ミドルウエア、アプリケーションの売上比率を伸ばしていくことに取り組んだ。 米国本社によるM&Aによってデータベース製品以外のラインアップが充実。提供できるサービスの範囲が広がった。これを生かす戦略を強化した。 アプリケーションを部品化して組み合わせ統合的に運用するシステム『SOA(サービス指向アーキテクチャー)』を中心にしたサービスに力を入れた。

中計を策定

2011年9月、8年ぶりに3カ年の中期経営計画を策定した。 米オラクルの戦略に沿って、ハードとソフトを融合化した新概念「エンジニアード・システム」を提唱。 年平均で「売上高12%程度、営業利益10%程度」の成長を目標に設定した。

趣味(社長就任時)

囲碁。日本IBM時代は囲碁部で活躍した。


デレク・エイチ・ウイリアムズ

(Derek H. Williams)

【期間】
2013年8月23日~
2014年3月

※イギリス人。7か月の暫定就任。オラクル本社における日本やアジア太平洋地域担当から、日本法人社長へ。

【生まれ】
1944年12月30日

【死去】
2016年7月25日(享年71歳)

社長就任時の年齢

68歳

社長就任前の役職

米オラクルのエグゼクティブ・バイス・プレジデント
※2001年から日本オラクルの取締役を務めていた。2010年6月まで「ジャパン セールス アンド コンサルティング」担当のエグゼクティブ・バイス・プレジデントを務めた。 オラクル本社における日本やアジア太平洋地域担当。

前任者の新ポスト

遠藤隆雄社長は会長へ就任

社長人事の発表日

2013年8月19日

出身地

イギリス

逝去

2016年7月25日死去。病気のため。享年71歳。


杉原博茂

(すぎはら・ひろしげ)

【期間】
2014年4月1日~
2017年6月

【生まれ】
1960年12月2日

社長就任時の年齢

53歳

前任者の新ポスト

デレク・エイチ・ウイリアムズ氏は取締役に就任

社長人事の発表日

2014年3月26日

出身地

大阪府

キャリア

略歴

アメリカの大学中退。

1982年、米国の大学を中退後、日本に帰国し、フォーバルに入社。

1989年、フォーバルアメリカインクに出向。

1993年、インターテルに転職し、アジア太平洋地域担当の役員、日本の現地法人の社長を兼任。
その後、EMC、シスコシステムズ、日本ヒューレット・パッカードを経て、2013年10月にオラクル入社。

退任

2017年6月に日本オラクルの社長を退任。 会長に就任。同年11月に会長からも退いた。


フランク・オーバーマイヤー

(Frank Obermeier)

【期間】
2017年月6月~
2019年9月 ※2017年月6月5日からCEO
2018年4月1日から社長兼務(社長ポストは2017年6月から空席だった)
2019年9月にCEOから外れたが、しばらく社長職にとどまった。

社長就任時の年齢

47歳

前任者の新ポスト

杉原博茂氏は会長に就任

出身地

デンマーク

キャリア

略歴

1991年7月、ヒューレット・パッカードのドイツ法人に入社


ケネス・ヨハンセン

(Kenneth Johansen)

【期間】
2019年9月2日~
2020年11月30日

※日本以外にオーストラリアやニュージーランドを統括するオーバーマイヤー氏をサポートするために就任。

【生まれ】
1972年3月2日

社長就任時の年齢

47歳

社長就任前の役職

ドイツ法人の責任者

前任者の新ポスト

フランク・オーバーマイヤー氏は2019年9月にCEOから外れたが、しばらく社長職にとどまった。

社長人事の発表日

2019年9月2日

出身地

デンマーク、コペンハーゲン

キャリア

オラクルに入社する以前は、スウェーデンのエリクソンや米CAテクノロジーズ、米BEAシステムズなどで勤務していた。

オラクル入社後

2009年オラクル入社。 デンマーク法人やドイツ法人の要職を歴任した。


三澤智光

(みさわ・としみつ)

【期間】
2020年12月1日~

※初期入社組。富士通から上場前の日本オラクルに転職。抜群の活躍ぶりで、「ミスターオラクル」と呼ばれた。副社長まで務めたが、日本IBMに引き抜かれ役員に。再びオラクルに戻ってきた。

【生まれ】
1964年4月27日

【別の漢字】
三沢智光

社長就任時の年齢

56歳

社長就任前の役職

副社長

他の主な役員人事

ケネス・ヨハンセンCEOは退任

社長人事の発表日

2020年11月19日

出身地

岡山県総社(そうじゃ)市

出身校(最終学歴)

横浜国立大学(教育学部)
※1987年卒業

新卒での就職先

富士通

キャリア

略歴

1987年4月、富士通に入社。 富士通の福井支店などで勤務。

1995年5月、日本オラクル入社

2000年8月、執行役員 パートナー営業本部長兼ソリューション統括部長

2006年6月、常務 システム製品統括本部長兼マーケティング本部長

さらに2011年6月、専務 テクノロジー製品事業統括本部長

2014年12月、副社長 データベース事業統括

2015年12月、副社長 クラウド・テクノロジー事業統括に就任し、クラウド事業を統括

衝撃だったオラクル退社

2016年3月18日、日本オラクル退社
※当時52歳。日本オラクルの取締役会メンバーで執行役副社長として「クラウド・テクノロジー事業」を統括していた。

いったんオラクルを去り、IBMに転職

4か月後の2016年7月、日本IBMへ。
専務に就任。「クラウド事業本部長」として活躍。

オラクル復帰

2020年6月、日本IBMを退社

2020年10月、米Oracle シニア・バイス・プレジデント

2020年12月、日本オラクル社長